善い事の勧めを率先して行ってみましょう。
わたしたちの行動は善い事なのかというのを考えてみることは、あらゆることに役立ちます。
それは人生に善い事の種を蒔き続けることであり、それはいつか必ず実を結びます。
種が育つには時間が経つように、その結果はすぐに訪れないかもしれませんが、意識的に行うことは植物に水をやるのと同様に、育つ過程に必要不可欠なものです。

些細な善い行いを考える
善い行いは何も大きなことでなくてもかまわないのです。
それは些細な善い行いでも、行動をすることに価値があります。
今回はいくつか例を書いて行きたいと思います。
・散歩に出かける
・あるものに目を向ける
・二極的に考えてみる
これらのことは善い行いにとって大事なものもあれば、些細なものもあります。
誰もが普段から良くなることを望んでいます。
それは幸福のようなもので、幸せになるには善い行いが必要です。
散歩に出かける
散歩に出かけるのは、元気な日常を過ごす人にとっては簡単なことです。
いつもと少し違うルートを通ってみるとか、新しい道を開拓することでもあります。
わたしたちの近くにはまだまだ知らない世界が広がっています。
新しくオープンしたカフェがあるかもしれません、他にも今まで通ってみてなかった道には普段は意識していないような動物の住処があるかもしれませんし、四季によって変わる景色を楽しむこともできます。
昼と夜には見える景色が違うように、すべてのものが変化し続けています。
わたしたちの脳は普段から現状維持というものを好むと言います、それでもまだ知らないことを知りたいという気持ちには終わりはありません。
あるものに目を向ける
あるものに目を向けることは、充実感を得るための方法の一つです。
わたしたちは人と比べることで、ないものに目を向けることをしてしまいますが、必要なものと言うのはあるものに目を向けることでより鮮明になります。
すでに必要なものをもっている場合もあります。
最近ではミニマリストという意味でも、あるものに目を向けて、不必要なものを生活から取り除くと言う生活も増えてきました。
本当に必要なものは工夫によって得ることもできます。
本当に必要なものはわたしたちが望むことで与えられるものです、お金も社会に循環している血液のようなものです。
それは常に流動しています。
わたしたちはその流れを創造することができます。
大河を造るにはその分、大人数の労力が必要です。
どれだけを望むかは、わたしたち次第です。
必要ならば流れのある場所から、水をひくだけですむかもしれません。
あるものに目を向けることは感謝であり、不平や不満ではありません。
あるものに目を向けてみてください。
二極的に考えてみる
二極的に考えてみるというのはわたしたちが普段行う行動の一つです。
善い行いをするには、悪い行いをしないことという意味でもあります。
善悪と言うふたつは常に存在します。
昼があれば夜があります。
富める人がいれば、貧しい人がいるのも現実です。
つねにわたしたちは望む方を考えることができます。
散歩に出かければ、お金持ちと同じ空の下にいるときがつくことでしょう。
昼の太陽光も同じように、誰にでもそのエネルギーを区別なしに与えています。
しかし、考えを固定してしまうと、そうしたことにも気がつけなくなります。
柔軟な考え方を持ち、受け入れることをすればよいのです。
受け入れることと、受け身になることは違います。
受け入れることには、今をより良くする力があります。
現代は分断ということをよく耳にしますが、もともとは一つのものがあることで分断が生じます。
あらゆるものに陰と陽があるともいえます、陰と陽を考えることは悪いことではありません。
陰の中には小さな陽があり、陽の中には小さな陰があります。
二極的に物事を考えるとは、人類の今までの成長の過程で手に入れた叡智でもあるのです。
わたしたちは善い行いと、悪い行いを区別することができます。
むすび
積極的に善い行いをするということは、自分自身のためにもなります。
人々に慈悲と憐みの感情をもって接することというのは、自分自身にやさしくすることでもあります。
善い行いをすれば、善い行いが返ってきます。
普段から自分自身に善い行いをするようにと、習慣を厳しくもつことは価値あるものです。
どちらも習慣によって、普段無意識に選択しているものです。
わたしたちは日ごとに良くなると考えれば、それはそのようになるのです。
日々新たなる日です。毎日が同じという人もいますが、まったく同じというのはありません。
積極的に善い行いを実行してみましょう。
最後まで読んで頂きありがとうございます。
Shouhei